国民の財産であり日本のシンボルである富士山は、その類まれなる美しい自然景観により、人の心を打ち、
これまで芸術や信仰を生み出してきた。
こうした偉大なる富士山を抱く静岡県において、すべての県民が富士山について学び、考え、想いを寄せ、
富士山憲章の理念に基づき、後世に引き継ぐことを期する日として、毎年2月23日を「富士山の日」とする条例を
平成21年12月25日に制定している。
『富士山の日』と言っても、祝日ではなく、仕事をしている方にとってはなかなか富士山に触れるのは難しいだろう。
なんと今年(2013年)の富士山の日は、土曜日と重なり、県内では様々な富士山に因んだイベントが開かれた。
私が今回参加をしたのは、磐田観光ボランティアふれあいガイド 15周年記念『富士山の日企画 旧東海道巡り』
(後援:磐田市観光協会)といわれるウォーキングイベントで、磐田市の史跡から富士山を望むもの。
▲福王寺で石垣の説明をする、磐田観光ボランティア「ふれあいガイドの会」会長の寺田さん
イベント当日は晴天にも恵まれ、総勢85名が参加。3グループに分かれ、磐田市内の史跡を約4時間かけて歩く。
集合場所の今之浦市有地に集合した参加者には、今之浦地区は大昔、海であった、という話しからスタート。
まず立ち寄ったのは、福王寺(ふくおうじ)。
戦国期に遠江を支配した徳川家康が、掛川城攻略の際に拠点として永禄12年(1569年)に築城を始めたとされる。
「武田信玄の侵攻に天竜川を背にした場所では、川を渡るのに不安があったのでしょう。
徳川家康が途中で築城を断念した際に、貰い受けたとされる石垣がこちらになります。」
磐田観光ボランティア「ふれあいガイドの会」会長の寺田さん自ら、参加者に案内をしていく。
「浜松に城を築いて拠点としたので、城ノ崎城は築城途中で放棄した様です。」(寺田さん)
寺田さん達、ふれあいガイドの会の皆さんは事前に3回コースを歩き、今回の見所を探したと話す。
解説を聞くだけでも、タメになるイベントだ。
「次は富士山が見える場所に移動します。」(ボランティアガイドさん)
▲磐田城山球場は城之崎城跡地にある
次に立ち止まったのは、磐田城山球場。野球場かと思いきや、何とここは城ノ崎城跡。
桶狭間の戦いを機に、駿河今川家から独立した徳川家康は、本国の岡崎を離れ、
新たに領土とした遠江国(現在の静岡県西部地区)に拠点を持つ事を決める。
当時遠州の中心地であった見付(磐田市)の広陵にて築城工事を始めるが、
前述した理由で築城途中で断念する。
「この球場は幻の城だったのです。」(寺田さん)
▲本当は見えるはずの富士山
家康も拠点とした広陵だけあって眺めは最高だが、肝心の富士山は見えるのか?
取材当日は晴天ではあったものの、ガスが掛かっており、富士山を見る事は出来なかった。
▲住宅街に現れた双子塚古墳
球場を後にし、次に向かったのは住宅地に残る二子塚古墳(ふたごつかこふん)。
二子塚古墳群は、古墳時代中期(5世紀後半)の前方後円墳 二子塚古墳(二子塚1号墳)と、
6~8世紀にかけて周辺に造られた計38基の古墳で構成されている。
「明治時代に馬具(馬鐸(ばたく)、鈴付杏葉(すずつきぎょうよう)、菱形の杏葉(ぎょうよう)、
三環鈴(さんかんれい))、銅鏡、管玉が発見されています。」(寺田さん)
1995年の発掘調査では、周溝から馬・人などの形象埴輪(はにわ)が出土する等、
周りの新興住宅街の景色から想像がつかない歴史が埋まっている。恐るべし。
▲七つ道。歴史を1箇所で確認出来る
旧東海道を歩き、大日堂(だいにちどう)を目指す。途中、面白い看板を発見する。
東海道五十三次の品川宿より数えて、27番目の袋井宿と28番目の見付宿との中間にある三ヶ野坂は
江戸時代の東海道街道筋。道が7つ存在し、あまり開発されていない事もあり、鎌倉時代の古道から、
現在の近代的な道路までを1箇所で見る事が出来る。
- 奈良、平安、鎌倉時代の道
- 江戸時代の道
- 明治時代の道
- 大正時代の道
- 昭和時代の道
- 平成時代の道
- 間道(質道)
時代が新しくなるにつれ、道路は人力による荷車の往来が出来る様、整備される等、時代の変化を見る事が出来る。
「あまり知られていない間道は、今は見つける事は出来ませんが、山越えの間道で生活に困り質草を隠し、
お金の工面の為に質屋通いをした道で人目を忍ぶ裏街道です。」(ボランティアガイドさん)
▲大日堂から富士山を探す参加者
1572年10月13日、武田信玄は、只来城、天方城、一宮城、飯田城、格和城、向笠城、久野城を僅か1日で落とし、
東海道を西進する。徳川軍は3,000から4,000の兵で、武田方の動きを偵察に出た。
大日堂から東方を見おろした徳川軍が見たのは、目の前に陣を整えた武田30,000の大軍だった。
武田の大軍を前に、押しに押された徳川軍は、大日堂、見付宿、一言坂と撤退をしながら抗戦、
徳川軍は本多平八郎忠勝が務め、本隊が天竜川を渡り切るまで、踏みとどまったとのこと。
家康が見おろした大日堂から、本日2回目の富士山を探す。
ガスが掛かった向こうに僅かながら頂上を眺める事が出来た。
▲一里塚
一同は鈴ヶ森を通り、一里塚を目指す。
見付本通りを東に進むと愛宕神社(あたご じんじゃ)の急な石段に突きあたり、
神社裏手奥の小高い頂上に一里塚と刻まれた石柱はあった。(上写真)
「この急な道が昔の東海道です。江戸日本橋から京都三条大橋までは百二十六里六町で三十六町ごとを、
一里(約4km)として中国の制度にならい、塚を築き目印としました。」(寺田さん)
この北側にも別の一里塚が見えますが?
「この道の北側に見える物も一里塚です。2つ見えるのも非常に珍しいですね。」(ボランティアガイドさん)
現在、私有地にある石柱も、ふれあいガイドの会の事前の交渉で、今回は見学する事が出来た。
▲徳川家康が寄進したとされる梵鐘(ぼんしょう)
磐田市内にはお寺が多く、次に立ち寄った宣光寺(せんこうじ)には徳川家康から寄進されたとされる
梵鐘(ぼんしょう)がある。
「遠州地方には徳川家康公にまつわる逸話が多く、この梵鐘もその一つと言えます。
武田信玄が30,000を超える軍勢で遠江に進攻した際、これを阻止せんと迎え撃った徳川軍は敗走し、
見付の町に火を放ち、浜松城に帰城したとされています。その際、この辺りの方々は沢山亡くなりました。
徳川家康は日頃信仰の厚かった宣光寺に戦死者の冥福を祈って 、梵鐘を寄進したと伝えられています。」
家康にまつわるこのエピソードを話してくれたボランティアの方は元高校の教諭。
各ボランティアに専門性があり、色々な話しが聞けるのもこのイベントの魅力の一つである。
▲鳥人幸吉で知られる浮田幸吉(うきた こうきち)についてのレクチャー
宣光寺の次は大見寺(だいけんじ)に移動。ここには鳥人幸吉で知られる浮田幸吉(うきた こうきち)の墓がある。
浮田幸吉は日本で初めて空を飛んだとされる人物で、1786年に人力飛行機を造り郷里の岡山を追放される。
「今のグライダーに似た人力飛行機は、約50m 程の飛行であったと言われています。」(ボランティアガイドさん)
晩年、見付に移り住み90歳で亡くなるまで、磐田で過ごした。
▲旧見附小学校
ゴールも近づき、映画のロケ等でも有名な旧見附小学校を横目に、
淡海国玉神社(おうみくにたまじんじゃ)に立ち寄る。
▲『因幡の白兎(いなばしのしろうさぎ)』
淡海国玉神社は見付の中央に位置するので、地元では「中のお宮」と呼ばれている。
神殿前には見慣れないウサギの像が。
「御祭神である大国主命(おおくにぬしのみこと)と縁の深いのがウサギです。数多くある大国主命の神話の中でも、
『因幡の白兎(いなばしのしろうさぎ)』はとても有名なお話です。」(ボランティアガイドさん)
▲ゴールまで、あと少し!
お茶で休憩を挟み、約4時間のウォーキングイベントは無事に終了。
▲磐田観光ボランティア『ふれあいガイドの会』
磐田観光ボランティア『ふれあいガイドの会』には現在28名の会員がおり、それぞれの得意な分野を纏め上げ、
『わがまち みどころガイド』を制作している。
「働いている間は時間に余裕も無く、自分が住んでいる街の知識等、殆どありませんでした。
私自身、昔から歴史に興味があり、そこから調べ上げ、実際に歩き、確認をしてきましたが、
同じ仲間を増やしていくと新たな発見もあり、改めてこの街が好きになりました。」
寺田さんを始め、ほとんどのメンバーが定年後の一つの楽しみとして活動を続けている。
富士山は、静岡県民にとって、とても大事な場所。
仕事や勉強の手を止めて、もう一度、富士山を眺めて欲しい。
もしかしたら、そこは歴史の舞台となった場所かもしれない。
ところで皆さん、とっておきの富士山を眺められる場所がありますか?
歴史や景観を意識して見つけることが、上手な付き合い方のヒントに繋がるはずだ。
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磐田観光ボランティア『ふれあいガイドの会』のお問い合わせ先
『磐田市観光協会』
WEB:http://www.kanko-iwata.jp